今まで誰もが言えなかった闇の部分などを公開します

阪神に必要なこと、大事なことなんかを書いていきます、野球すきなおっさんブログ

2015-01-01から1年間の記事一覧

呂布は1年以上に亘り激戦

呂布はまず荊州に赴き、袁術に手厚くもてなされたが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗っ…

洛陽帰還行

董承は、元々董卓の娘婿牛輔の部曲であった[3]。董卓死後、長安における権力争いの中で、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。 興平2年(195年)7月、張済の仲介により、李傕・郭汜ら旧董卓軍の将軍たちの間で和解が成立し、献帝が洛陽…

城内を分割して統治

興平元年(194年)、征西将軍の馬騰が李傕と関係を持とうとしたが、李傕がそれを拒否したために関係が悪化する。馬騰は双方の仲裁に入った韓遂と共謀し、長安に攻め上ったが、李傕はこれを撃退した。また、馬騰に連呼して益州から攻め上ってきた劉焉軍も撃退…

董卓政権下

李傕の名が史書に出てくるのは初平2年(191年)で、孫堅に講和を求める使者となっている。この交渉は決裂し、講和は拒絶された。 後に孫堅が洛陽に入ると、董卓の娘婿である牛輔に従い陝県に残った。また先に董卓によって洛陽方面に派遣され、袁術に寝返って…

軍人として頭角を現す

幼い頃から好んで学問に励み[2]、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された[3]。以後は、廬県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。 中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため船橋…

儒学で名を成さしめた家系の出身

寛大で節義を弁え、智謀に秀でていたといわれている。代々儒学で名を成さしめた家系の出身で、常に質素な生活をしていたこともあったため、多くの人から慕われていた(『後漢書』袁紹伝の引く『魏書』)。 霊帝の時代、何進の招聘を受け騎都尉となった。十常…

若い頃から男伊達

「董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の八俊(八厨)の一人であったとある。若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった。曹操や袁紹と親友のように仲が良く[1]、 頭脳の明晰さと徳行で官…

名門の実力者

後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、袁逢・袁隗の次の世代の人物にあたる。 袁紹の前半生ははっきりしないが、一説(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)によれば、生まれて間もなく父の袁成と死別し、叔父の袁逢と袁隗に…

弟と共に清廉で人望のある

『後漢書』に引用された『呉志』によると、劉岱は弟と共に清廉で人望のある漢王室ゆかりの兄弟として知られており、二人を推挙した平原の陶丘洪は、彼らのことを「若し明君をして公山(劉岱)を前船橋に用いらしめ、後に正礼(劉繇)を擢けば、所謂長塗に二…

専横を極める

董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、郿侯に封じられた。 ついで相国[14]となり[15]、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣[16]を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを…

異民族征伐で張奐や段熲と共に功名を挙げた武将

若い頃から文武に優れており、詩書を好み弓馬術の習得に励んだ。孝廉へ挙げられ、郎中に任命される事となったが、父の死去により辞退した。再び茂才に挙げられ、陳蕃・竇武に招かれるも出仕しなかった。後に霊帝から公車により招聘されると、遂に出仕を決意…

太平道の信者を集め養って

自ら大賢良師と称し、太平道の信者を集め養っていた。平伏して罪を懺悔させたり、符水を飲ませることで信者の病を癒したため、人々の信奉を集めた。10余年のうちに、数十万人の信者を8つの州で獲得するに至ったため、信者を36の「方」に属せしめ、それぞれの…

長江南岸は土豪が割拠

霊帝死後に詔勅によって荊州刺史王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった[3]。 しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治める事に成功し…

妻は蔡瑁の伯母

曹騰に推薦され、尚書郎から司空(前任は張済)・太尉に任じられた。 185年に涼州地方で韓遂・辺章の反乱があった際、車騎将軍に任命されて孫堅・陶謙らを参謀に迎え、董卓と共に軍勢を率いて鎮圧に向かった。しかし張温は、元の中山太守の張純が韓遂・辺章…

北方の勇将

先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。若い頃に、遼西郡の船橋門下書佐に任命された。聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。弁舌さわやかで頭の回転も速く、物…