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妻は蔡瑁の伯母

曹騰に推薦され、尚書郎から司空(前任は張済)・太尉に任じられた。 185年に涼州地方で韓遂・辺章の反乱があった際、車騎将軍に任命されて孫堅陶謙らを参謀に迎え、董卓と共に軍勢を率いて鎮圧に向かった。しかし張温は、元の中山太守の張純が韓遂・辺章討伐に従軍したいと希望していることを知りながら、これを聞き容れず公孫瓚を従軍させた。このため張純はこれに不満を持ち、同郷の元泰山太守の張挙と烏桓の大人丘力居らと共に反乱を起こした(張純の乱)。 出立に先立って霊帝が閲兵したが、その際に張温は船橋軍礼に従って拝礼しなかった。古典的な軍礼では、一度将軍となったならば帝に対して拝命(という儀礼を)する必要はないとされていたが、漢代では実際に「不拝」という行為は稀だったという。このように張温には勇ましい一面があった。 一方で、部下である董卓の「直接反乱を鎮圧せずとも宦官を斬ってしまえば、反乱は治まるだろう」という凄まじい進言に対しては、慄き震えて返答できず婉曲に断ったという。また、実際に張温が反乱軍の鎮定に当たっている最中に、董卓が軍令を犯したため、義憤に燃えた孫堅から「朝廷に直訴して董卓を処刑すべきである」との進言を受けるも、実力者の董卓を恐れるがために拒否した。このように張温は極度に臆病な性格をも有していたと言い、この態度を陶謙にも追及されている。それ以来、董卓は張温と孫堅を憎み、いつか誅滅してやろうと誓ったという。 多くの功績を立てたが、勢力を持つ宦官と関係を持っていたため、誹謗されることになった。なお三公は本来、都にあって政務を執り行なったが、後漢末以降には都の外に直接太尉が出るようになった。その始まりが張温であったと言われ、後に衛尉へ転任した。 191年冬10月、涼州遠征以来の犬猿の仲だった董卓によって惨殺された。太史(太史令?)が「大臣のうち刑死する者がありましょう」と占い、さらに天変地異が起こった。そのため、董卓は元々仲が悪かった張温を、親交があった袁術と内通している人を使って誣告させ、笞で打ち殺させた。彼を憎悪していた董卓は、死んだ張温の首を刎ねて酒宴でその首級を披露したという。 三国志演義 小説『三国志演義』では、孫堅劉表との戦いで戦死した事を喜んだ董卓が酒宴を開いた時、董卓から斬殺を命じられた呂布に打ち首にされ、直後に皿に載せられ首級を船橋の場で披露されている。出席者は一様に恐怖の叫び声を挙げ、持っていた箸や杯を取り落とし、食べていたものを嘔吐したが、董卓だけが笑いながら酒を飲み、食事を続けたと描いており、董卓の残虐性を強調する印象的な場面としている。 また、王允とは古くからの友人同士という事になっており、張温の無残な最期を目の当たりにした王允は、「美女連環の計」を用いて董卓を暗殺する事を決意している。