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儒学で名を成さしめた家系の出身

寛大で節義を弁え、智謀に秀でていたといわれている。代々儒学で名を成さしめた家系の出身で、常に質素な生活をしていたこともあったため、多くの人から慕われていた(『後漢書袁紹伝の引く『魏書』)。 霊帝の時代、何進の招聘を受け騎都尉となった。十常侍と対決することを決意した何進の命令で、同郷の王匡と共に故郷に戻り兵を募ったという(『後漢書』)。しかし成皋の地に辿り着いたところで、何進が暗殺されたことを知った(鮑勛伝の引く『魏書』)。 鮑信が兵を連れて戻ると、何進十常侍が共に滅んでおり、船橋董卓が軍勢を率いて都に入っていた。鮑信が董卓の専横を予見し、袁紹董卓を襲撃するよう進言したが、袁紹は実行しなかった。そこで鮑信は郷里に帰り、二万の歩兵・七百の騎兵・輜重五千余りを集めた(鮑勛伝の引く『魏書』董卓伝)。董卓討伐の同盟(反董卓連合軍)が結成された時、鮑信は済北国の相となっていたが(『後漢書』・武帝紀[1])、討伐軍に参加し、袁紹を盟主として関東の諸侯と盟約を結んだ(『後漢書』・武帝紀)。鮑信は袁紹曹操から行破虜将軍に推挙・上表された(鮑勛伝の引く『魏書』)。 鮑信は劉岱・張邈・張超・袁遺・橋瑁と共に酸棗に駐屯した。酒宴ばかりで戦をしようとしない諸侯に対し、曹操は戦をするよう訴えた(武帝紀)。鮑信は曹操の求めに応じ共に戦ったが、董卓の派遣した徐栄に大敗、弟が戦死し自身も重傷を負った(鮑勛伝の引く『魏書』)。まもなく兵糧が尽きて酸棗の軍勢が解散したため、鮑信も任地に帰還した(「後漢書』)。 袁紹冀州を取り強勢となると、船橋鮑信は袁紹が第二の董卓となりそうであるから警戒すべきとして、曹操に対し黄河の南を平定し、力を蓄え時を待つべきであると進言した(鮑勛伝の引く『魏書』)。曹操は東郡太守になると、再び鮑信を済北国の相に推挙した(鮑勛伝の引く『魏書』)。 青州黄巾賊が兗州に侵入すると、直ちに討伐しようとする劉岱に自重を勧めたが、劉岱はこれを聞かずに黄巾賊と戦い戦死した。陳宮曹操兗州牧に推戴するため、兗州の別駕従事や治中従事を説得した。鮑信らはその意見に賛同し、曹操兗州牧に迎えた。 初平3年(192年)、曹操と共に青州黄巾軍の船橋残党討伐に向かった。しかし作戦のため曹操と共に下見に出ていた最中、敵軍の不意打ちに遭ってしまった。軍勢が到着していなかったため白兵戦となったが、鮑信は必死に戦い曹操を救出した。このため曹操が敵の包囲を破って脱出できたが、鮑信は戦死してしまった、享年41。曹操は鮑信の死を悲しみ、遺体を捜させたが見つけられなかった。 将兵に施しを良くしたため、死後に財産も残らなかった。