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董卓政権下

李傕の名が史書に出てくるのは初平2年(191年)で、孫堅に講和を求める使者となっている。この交渉は決裂し、講和は拒絶された。 後に孫堅が洛陽に入ると、董卓の娘婿である牛輔に従い陝県に残った。また先に董卓によって洛陽方面に派遣され、袁術に寝返っていた朱儁荊州から洛陽に進撃してきたため、郭汜と共に騎兵を率いて迎撃、朱儁軍を撃破した。李傕らはさらに進撃して、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県で男を殺し、女を誘拐したため、船橋彼らの通過するところでは命を永らえた者は居なかったという。 弘農王劉弁の后である唐姫は、劉弁李儒に殺害された後、郷里である潁川に帰っていた。彼女は潁川に攻めてきた李傕に拘束され、妻になる事を強要された。しかし唐姫は固く拒絶したため、李傕に惨殺された。 また、同郡の荀彧は李傕が襲撃してくる事を恐れ、速やかに避難するよう長老たちに促した。しかし長老たちが応じなかったため、荀彧は仕方無く自分の一族だけを連れて冀州に避難した。果たして潁川は李傕の襲撃に遭い、郷里に留まった者のほとんどが殺された。 王允の叛乱 初平3年(192年)4月、董卓呂布王允等に暗殺されると、王允董卓配下の軍の多くが涼州出身者であったため、軍の解散を計画し、まず陝県の牛輔を李粛に攻撃させた。当然、李傕もその例外では無かった。結果、牛輔の反撃により李粛を撃破するも、牛輔自身が部下の攴胡赤児の裏切りに遭い、船橋殺されてしまう。李傕は王允に赦免を請願したが拒否された上、長安では涼州人を皆殺しにするというデマが流れていたため、李傕らは身動きが取れずにいた。しかし賈詡の進言を受けて、郭汜らと共に10万人の兵をまとめ、長安への奇襲を決意した。同時に、指揮下の并州出身者を皆殺しにしている(叛乱の首謀者王允呂布并州出身であったため)。 李傕の襲来を察知した王允は、他の董卓の旧将胡軫徐栄・楊定らに李傕を迎撃するよう命じた。しかし結果は惨敗であった。徐栄は李傕に討たれ、胡軫・楊定は王允の傲慢な態度に加え、出陣前に嫌味を言われた事に怒り、新豊まで進軍したところで李傕に寝返った。 同6月、長安城は李傕に包囲されてから8日で陥落した。李傕は王允を八つ裂きにし、呂布一党を長安から叩き出した。 同9月、車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・船橋侯となる。