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軍人として頭角を現す

幼い頃から好んで学問に励み[2]、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された[3]。以後は、廬県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。 中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため船橋張温の指揮下で涼州に派遣された[4]。 徐州で黄巾党の残党が蜂起したため、徐州刺史に任命され、その討伐にあたった[5]。 勢力の拡大 初平元年(190年)、董卓に反対する義兵が近隣の州郡で蜂起したが、陶謙は事態を徐州から静観した。 黄巾の残党が再び活発化すると、陶謙孫堅に援軍を依頼したため、孫堅軍の朱治が援軍を率いてやって来たこともあったという[6]。 董卓の死後、李傕・郭汜が長安の朝廷を牛耳るようになると、陶謙朱儁に太師となることを勧め、諸侯同盟の復活を目論んだが、孔融・鄭玄など一部の太守や学者の船橋賛同しか得られず、まもなく朱儁本人が長安の朝廷への帰順を決めたため、 陶謙の目論見は頓挫した[7]。陶謙は間道を使って長安に貢物を送ったため、安東将軍・徐州牧に任命され、溧陽侯の爵位を得た。 関東の諸侯が互いに争う中で、陶謙の推挙した王朗が会稽太守に任命されるなど、陶謙は揚州にもその勢力圏を伸ばすようになった。 この頃の徐州は豊かな土地であり、流民が戦乱を避けて身を寄せるほどだったといわれる。 しかし、その中にあって陶謙は次第に道義へ背くようになり、感情に任せて行動するようになっていった[8]。 曹操との敵対 袁紹曹操袁術公孫瓚が争うようになると、陶謙公孫瓚に呼応して発干に出陣し、袁紹を圧迫しようとしたが、曹操に打ち破られた(魏志武帝紀」)。 初平4年(193年)、下邳の闕宣[9]が勢力を振るうようになると、陶謙は闕宣と同盟して泰山郡の費県・華県において略奪を働いた。しかしやがて仲違いが起こったため、船橋闕宣を殺害しその軍勢を吸収した。また、同時期に曹操の父曹嵩が、陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。一説には陶謙が殺害したともいわれ、陶謙兗州を治めていた曹操の仇敵となった[10]。