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北方の勇将

先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。若い頃に、遼西郡の船橋門下書佐に任命された。聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。そして侯氏の援助で涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。このときの学友に劉備がいる(蜀志「先主伝」)。 太守の劉氏(名は劉其、または劉基[2])が法律に触れて廷吏に連行されたとき、公孫瓚は法に触れる危険を犯してこれに随行し、雑役を代わって務めた。劉氏は日南郡に流罪となりそうになると、これに随行するため北虻山の上で先祖を祭り、米と肉を捧げて涙を流し祈った。人々はこの姿を見て涙を流した。結局、劉氏は赦免を受けて帰還することができた。 公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた鮮卑族の一団を見かけた。これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。公孫瓚船橋の令となった。 光和年間に涼州で反乱が起きた。中平3年(186年)、張温の討伐軍への援軍として朝廷は幽州の突騎3000人の出動を命じた。このとき公孫瓚は都督行事の割符を与えられ、突騎兵の指揮を任された。 薊まで来たところで、張温の対応に不満の張純が将軍を自称し、張挙・烏桓族の丘力居を誘い反乱を起こし、右北平と遼西属国を荒らしまわった(張純の乱)。公孫瓚は配下を率いて張純らを攻撃し撃破したため、騎都尉となった。更に反乱を繰り返す張純に公孫瓚は攻撃を仕掛け、遼東付近でこれを攻め破り、誘拐・捕虜とされていた人民らを素早く救出し、さらに長城を越えて反乱軍を追撃した。だが、深入りしすぎたために今度は逆に反乱軍の包囲を受け、数百日の激闘の末、食糧が尽きて両軍ともに撤退する。 その後、烏桓族の貪至王が騎馬部族を率いて公孫瓚に降伏したため自軍へ編入。その功で中郎将・都亭侯となった。公孫瓚は遼東属国に駐屯し、異民族と5・6年かけて戦闘を繰り広げた。 劉虞との対立 烏桓族の丘力居はこの間、船橋青州・徐州・幽州・冀州を荒らし回ったが、公孫瓚は対応ができなかった。朝廷は幽州刺史の経験のある宗正の劉虞を幽州牧に任命してこれに当たらせた。劉虞は丘力居を説得し、張純の首を差し出させて帰順させようとし、丘力居もこれを受け入れようとした。公孫瓚はこれを阻止するため丘力居の降参の使者を捕らえて殺害したが、次の使者は間道を通って劉虞に降参の意向を伝えたので、劉虞は諸地に駐屯していた軍を引き上げるとともに、公孫瓚のみを留めて歩兵と騎兵1万を率いさせて右北平に駐屯させた。張純は妻子を捨てて鮮卑を頼って逃走したが、食客の王政に殺害された。劉虞はこの功績で太尉に昇進した。後に董卓の推挙によって公孫瓚は奮武将軍・薊侯に封ぜられた。