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名門の実力者

後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、袁逢・袁隗の次の世代の人物にあたる。 袁紹の前半生ははっきりしないが、一説(『三国志魏志袁紹伝」が引く『英雄記』)によれば、生まれて間もなく父の袁成と死別し、叔父の袁逢と袁隗に育てられたという。船橋幼少にして郎に取り立てられ、20歳で濮陽の県令に任命されると清廉との評判を得た。母が亡くなると3年の喪に服し、喪が明けると更に父の喪にも服し、孝を尽くした。6年間の服葬の後、洛陽に隠れ住んだ。むやみに人と会わず、名声の高い人物とのみ交際したという。 袁紹は威厳がある風貌をしており、また名門出身にも係わらず謙虚であったため、曹操ら大勢の人々から慕われたという。一説(『三国志魏志袁紹伝」が引く『英雄記』)には遊侠を好み、船橋張邈(孟卓)・何顒(伯求)・許攸(子遠)・伍孚(徳瑜)・呉子卿(諱は不詳)らの名士と「奔走の友」としての交わりを結んだ。朝廷からの招聘には応じなかった。 同世代の袁氏有力者として袁術がいた。宗族の長は袁紹袁術のいずれか[3]と目されており、都にいた地方の豪族子弟はこぞって両家に赴いたが、何顒や許攸らは袁術のもとには赴かなかったという。このため、袁氏の正嫡であると自負していた袁術に憎まれ、後に対立する一因となった。 当時、朝廷の政治を壟断していた宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。そのことを聞いた叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱ったという(『三国志魏志袁紹伝」が引く『英雄記』)。そのため、何進の掾(属官)に召されるとようやく官途に就くことにした。間もなく侍御史・虎賁中郎将と累進し、188年には中軍校尉(西園八校尉の一つ)も兼ねた。 189年5月[4]、俄かに霊帝崩御すると、子の劉弁(後の少帝)を支持する何皇后と、劉協(陳留王、後の献帝)を支持する董太后との間で後継争いが起こった。劉協派の宦官の蹇碩は、何進を暗殺しようと図ったが失敗し、劉弁が即位した。劉協派を粛清し外戚として権力を握った何進は、さらに十常侍ら宦官勢力の一掃を袁術と図る。しかし、皇太后(何皇后)は宦官から賄賂を受けていたので、許可船橋しなかった。また、宦官側もしきりに何進に留意を促したため、計画は進展しなかった[5]。 そこで袁紹は、董卓ら諸侯の軍勢を洛陽に召集し、皇太后に決断を迫るよう献策した。その策は何進に採用されたが、後に董卓と諸侯の権力闘争の遠因となった。何進袁紹司隷校尉に任じて、兵権を与え洛陽の武官の取りまとめを任せ、また虎賁中郎将の袁術に命じて宦官から武力を取り上げようとした。しかし、時機を逸した上に秘密が漏れ、逆に何進は宦官に暗殺された[6]。ここに至って袁紹は宮中に兵を進め、宦官を老若の区別なく皆殺しにした[7]。

弟と共に清廉で人望のある

後漢書』に引用された『呉志』によると、劉岱は弟と共に清廉で人望のある漢王室ゆかりの兄弟として知られており、二人を推挙した平原の陶丘洪は、彼らのことを「若し明君をして公山(劉岱)を前船橋に用いらしめ、後に正礼(劉繇)を擢けば、所謂長塗に二龍を御し、千里に騏驥を騁す、亦た可からずや(もしも名君に劉岱を先に用いらせ、その後に劉繇を引き抜き用らせたならば、所謂長い道程において二匹の龍を操り、千里の道において一日に千里を行く二頭の駿馬を走らせるようなものです。なんとよいことではないでしょうか)。」と評価した。 侍中として朝廷に仕えていたが、董卓が実権を掌握すると、董卓の名士優遇策の一環として兗州刺史として下向、中央政治より離れた(董卓伝)。謙虚な姿勢をとったため、人心を集めたという評が残されている(後漢書)一方、程昱など招聘に応じなかった者もいた(程昱伝)。 初平元年(190年)、袁紹を盟主として山東の諸侯が董卓に対して討伐軍を起こした際、これに呼応して反董卓連合軍の一人として参加している(武帝紀)。劉岱は張邈・袁遺・橋瑁・鮑信・曹操と共に酸棗の地に駐屯したが、酒宴をするのみで積極的に董卓と戦おうとせず、曹操に叱責された(武帝紀)。やがて兵糧が尽きて軍を解散させている(『後漢書』)。まもなく、同じ反董卓軍の一人であった橋瑁と対立し彼を殺害、王肱を東郡太守にしている(武帝紀、なお、『三国志演義』では橋瑁との対立は兵糧を巡る問題にされている)。 袁紹公孫瓚と親しい関係にあり、袁紹は自分の家族を預け船橋公孫瓚は范方という部将に騎兵を率いさせ、劉岱の元に派遣していた。まもなく袁紹公孫瓚が対立すると、公孫瓚袁紹の家族を差し出すよう劉岱に圧力をかけた。公孫瓚とも友好関係にあった劉岱は判断に迷い、別駕であった王彧の勧めで程昱に相談を持ちかけた。程昱は「公孫瓚が一時的に優勢となっているが、結局は袁紹に敗れるだろう」と言い、劉岱はその言葉に従った。公孫瓚は軍勢を引き上げさせたが、それが公孫瓚の下に辿り着く前に袁紹に敗れた。劉岱は改めて程昱を騎都尉に任命しようとしたが、病気を理由に辞退された(程昱伝)。 その後、青州の黄巾軍残党勢力が兗州に侵攻してきた。この対応を協議する中で鮑信は「黄巾軍は百万ともいう圧倒的勢力を誇り、その勢いは衰えることを知らないため、鎮圧することは難儀を極めるだろう。ここは籠城すべきである」と献策した。しかし、劉岱はこの進言を聞船橋き入れることなく出陣し、敢え無く討死してしまった。その後、この乱を鎮圧した曹操兗州刺史を継承することになった(武帝紀)。

専横を極める

董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、郿侯に封じられた。 ついで相国[14]となり[15]、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣[16]を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを許された。 位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた[17]。 董卓は名士を取り立てて政権の求心力としようとし、侍中の伍瓊、吏部尚書の周珌、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事を委ね、荀爽を司空、韓馥を冀州刺史、劉岱を兗州刺史、孔伷を船橋刺史、張咨を南陽太守、張邈を陳留太守に任命した。また、かつて宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置もとった。さらに、董卓に反発し洛陽より出奔した袁紹を追討せず、勃海太守に任命して懐柔しようと図った(『三国志魏志袁紹伝」)。 董卓の専横に反発した袁紹袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけ[18]で初平元年(190年)に反董卓連合軍を組織した。同年2月、董卓は袁隗ら在京の袁氏一門を誅殺するとともに、弘農王を毒殺した。さらに司徒の楊彪・太尉の黃琬[19]・河南尹の朱儁[20]らの反対を押し切って長安に強制的に遷都した。その際に洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。また、袁紹らとの融和策をとっていた督軍校尉の周珌と城門校尉の伍瓊を殺害した[21][22]。 その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃つ姿勢をとった[23]。まず、董卓は河陽津で陽動作戦を用いて泰山の精兵を率いる王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽県汴水で曹操・鮑信らを大いに破り、梁県で孫堅を破った[24]。 この間、兼ねてより折り合いの悪い皇甫嵩が軍勢を率いて関西方面にあったため、董卓は城門校尉に任命すると称して長安から皇甫嵩を召還して殺害しようとした。皇甫嵩が自立を勧める部下の反対を押し切り帰朝してきたため、董卓はさっそく皇甫嵩を逮捕投獄し、死刑にしようとしたが、皇甫嵩の息子の皇甫堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死に嘆願したため、董卓皇甫嵩の軍権を剥奪するに留めた(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。 長安で死す 初平2年(191年)、胡軫呂布らが率いる董卓軍が孫堅と戦い、華雄が討たれるなど大敗した(陽人の戦い)。このため、同年4月、董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退した。 董卓は長安に着くと太師と称し、董旻、董璜ら一族を皆朝廷の高官に就け、外出するときは天子と同様の青い蓋のついた車を乗り回すようになった。長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳したために、貨幣価値が乱れた。船橋近くの郿に長安城と同じ高さの城壁をもった城塞を築き(郿城・郿塢と言われる)、30年分の食糧を蓄えていたという。董卓の暴虐ぶりはあいかわらずで、逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、なお平然と酒を飲んでいたという。董卓に信任されていた蔡邕は董卓の暴政を諌めたが、一部を除きほぼ聞き入れられることはなかった[25]。 董卓が太師に就任する儀式の際に、壇上に上る自分に船橋皇甫嵩一人だけが頭を下げなかったことに気づき、董卓は「義真(皇甫嵩の字)、まだかな?」と改めて促し、皇甫嵩も果たして「これは失礼した」と従っていた。皇甫嵩があくまで遜り忍従する態度を貫いたため、董卓皇甫嵩と和解したという(『山陽公戴記』及び『漢紀』)。

異民族征伐で張奐や段熲と共に功名を挙げた武将

若い頃から文武に優れており、詩書を好み弓馬術の習得に励んだ。孝廉へ挙げられ、郎中に任命される事となったが、父の死去により辞退した。再び茂才に挙げられ、陳蕃・竇武に招かれるも出仕しなかった。後に霊帝から公車により招聘されると、遂に出仕を決意し、議郎・北地太守を歴任した。 184年、張角を中心に黄巾の乱が勃発すると、対策を協議する朝廷において、皇甫嵩党錮の禁解禁と霊帝の私財(銭穀・軍馬)放出を具申した。皇甫嵩は左中郎将に任命され、右中郎将の朱儁と共に精兵4万を率いて、穎川方面の黄巾討伐に向かった。 潁川黄巾軍の波才との戦いでは、当初朱儁が担当したが官軍は劣勢となり、勢いを増した波才皇甫嵩の籠る長社を包囲された。皇甫嵩は田単の故事に倣って一計を案じ、火攻船橋めで波才軍を混乱させ、都から援軍に赴いた曹操朱儁と共に、波才を大破した。皇甫嵩はこの功績で都郷侯に封じられ、以後も朱儁と共に汝南郡・陳郡(淮陽)・東郡の各地を転戦し、勝利を挙げた。 東郡黄巾軍の卜己を倉亭で破り、卜己を生け捕って7千の首級を挙げた。 冀州方面の張角率いる黄巾本隊の討伐は、盧植董卓が担当していたが、彼等が戦果を挙げることができなかったため、皇甫嵩に討伐の命が下った。広宗で張角の弟張梁を討つとともに、病死していた張角の棺を壊して首を洛陽へ送った。さらに曲陽では張角の弟張宝を討ち、10数万を斬り京観を築いた。黄巾軍討伐成功の功により、左車騎将軍に任命され、槐里侯に封じられた。また、八千戸の食邑を与えられ、冀州牧となった。 冀州においては戦乱に苦しむ民の負担を軽減し、また部下に対しても恩寵を施し、汚職をした官吏すら許したため信望を集めた。その頃、信都の閻忠は皇甫嵩に「世は乱れており、自身の名声と行ないが自身に災いを招くことは明白だ。それを避けるため独立し、軍兵を動かし天下を一つにまとめ、民心に従い漢王朝に代わり帝位に就くべきだ」と、韓信の故事を引いて説得した。しかし皇甫嵩が拒絶したため、閻忠は逃亡した。 185年、辺章・韓遂涼州で反乱を起こすと船橋、朝廷の命令で長安に駐屯し、董卓と共にその討伐に当たった。このとき、十常侍趙忠の法令違反を上奏し、また張譲からの賄賂要求を拒否していたこともあったため、十常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑6千戸を取り上げられた。都郷侯に戻されたが、なお2千戸を領した。 涼州の反乱は新たに張温が討伐に当たっていたが、成果を挙げることは出来なかった。188年、賊の王国が陳倉を攻撃した際、皇甫嵩は左将軍に任命され再び討伐に当たった。このとき董卓を指揮下においた。軍中では董卓の提案する策をいずれも退け、その正反対の策を用い勝利を収めた。しかしこのことから、董卓に憎まれることになった。同年中、二度船橋にわたって朝廷から董卓に対し、并州牧に任命するため軍権を皇甫嵩に渡して帰還するよう指示が届いたが、董卓は拒否した。また、皇甫嵩は朝廷に事の次第を上書したため、董卓とのいがみ合いは決定的となった。

太平道の信者を集め養って

自ら大賢良師と称し、太平道の信者を集め養っていた。平伏して罪を懺悔させたり、符水を飲ませることで信者の病を癒したため、人々の信奉を集めた。10余年のうちに、数十万人の信者を8つの州で獲得するに至ったため、信者を36の「方」に属せしめ、それぞれの方に渠帥を置き管轄させた。表面的には善道をもって天下を教化していたが、内部では結託して黄天の世を作ろうと画策していた。やがて、 蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉 という標語を掲げ、洛陽の城門や州郡の役所に白亜で「甲子」の字を書いて造反をアピールした。 光和7年(184年)、人身御供を捧げて天を祭り、一斉に蜂起して州郡の船橋役所を焼き払い、長官を殺害し集落を略奪した。張角は天公将軍と称した。しかし同年夏以降は、後漢朝廷の皇甫嵩朱儁らの活躍もあり、急速に乱が治まっていった。(詳細は黄巾の乱を参照)張角は広宗に拠って抵抗したが、10月に広宗は陥落した。この時、張角が既に病死していたため、討伐軍は棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬首した首を洛陽で木に吊るした。 この後も黄巾を名乗る蜂起は各地で続いた。さらに、北宮伯玉・韓遂張燕・張修など黄巾以外の反乱軍も数多く蜂起し、もはや後漢朝廷の手に負えなくなった。この事件以降、後漢の権威は地に堕ちた。 やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。 三国志演義の大賢良師(太平道人)に至るまで 小説『三国志演義』では、張角張宝張梁の3兄弟は「不第秀才」(郷試に合格していない秀才 (科挙))という設定で登場する。ある日、山に薬草を採集しに行ったところ南華老仙という人物に会い、「太平要術」3巻を授けられ「まさに天に代わりて船橋宣化し、あまねく世人を救うべし。」との使命を与えられる。また、もし悪用すれば、必ず報いを受けるだろうと警告される。これにより風雨を呼ぶ能力を身につけ、「太平道人」と号すことになる。中平元年正月(歴史上の中平元年は12月からのため、この年月は存在しない。)に疫病が起こると、張角は符水をもって人々の病を癒し、さらに「大賢良師」と号している。 その後、史実通りに船橋の乱を起こし、乱の最中で死んでしまう。

長江南岸は土豪が割拠

霊帝死後に詔勅によって荊州刺史王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった[3]。 しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治める事に成功した。[4](後に州治を宜城近くの襄陽[5]に移している。) 初平元年(190年)、各地で反董卓の義兵が挙げられると、劉表もこれに加わった。 初平3年(192年[6])、袁術の意を受けた孫堅荊州に侵入した。劉表黄祖に命じてこれを防ぎ、袁紹と同盟して対抗した。黄祖は苦戦したが孫堅を討ち取り、荊州を守り抜いた。(襄陽の戦い) 初平4年(193年)、李傕らが実権を掌握する朝廷から、劉表船橋は仮節・鎮南将軍・荊州牧に任じられ、また成武侯に封じられた。同年、袁術曹操が争うと、袁術の糧道を断ち、袁紹と協調関係にあった曹操を支援した[7]。 張済が食料不足により荊州の穣城を攻撃したが、流れ矢に当たって死んだ。劉表は「張済は困窮したから荊州に来たのに、私が礼を尽くさなかったから戦争をすることになってしまった。これは私の本意ではない」と言い、旧張済軍を受け入れた。旧張済軍はこの言葉を聞いて劉表に服従した。 その後、曹操袁紹は敵対するようになる。劉表は引き続き袁紹に与して、旧張済軍の張繍と同盟を結び、曹操と戦った。 建安3年(198年)、曹操張繍の駐屯する穣県[8]を攻囲した。劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かすと、張繍とともに挟撃しこれを破った。しかし敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかって両軍とも敗れた。 建安4年(199年)11月、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。 建安5年(200年)、官渡の戦いに際して劉表袁紹から救援を要請された。これに先立って、長沙太守の張羨が桓階の提案に従い、長江・湘江一帯の住民を扇動して劉表に背いていた。劉表は張羨を討つべく自ら出征しており、結局袁紹に援軍を送らなかった。その後、張羨は病死し子の張懌が反乱を続けたが、劉表は反乱を鎮圧し、長江の南岸を勢力圏に組み入れた[9]。 建安6年(201年)、汝南から劉備船橋身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。劉表劉備を新野[10]に駐屯させ、曹操への備えとした。 建安8年(203年)、曹操荊州へ侵攻し西平に駐屯した。すると、まもなく河北では袁譚袁尚が争うようになった。曹操袁譚と同盟を結び、袁尚を攻撃するために撤退した。この戦いの前後に、劉表劉備を博望に派遣し、夏侯惇于禁らの率いる軍を退けている。 建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった。 建安13年(208年)、曹操船橋に侵攻を開始。劉表曹操荊州入りする直前に病死した。享年67(65の説あり)[11]。死後、庶子の劉琮が家督を継いだが、長子の劉琦も劉備によって江夏の主として盛り立てられた。

妻は蔡瑁の伯母

曹騰に推薦され、尚書郎から司空(前任は張済)・太尉に任じられた。 185年に涼州地方で韓遂・辺章の反乱があった際、車騎将軍に任命されて孫堅陶謙らを参謀に迎え、董卓と共に軍勢を率いて鎮圧に向かった。しかし張温は、元の中山太守の張純が韓遂・辺章討伐に従軍したいと希望していることを知りながら、これを聞き容れず公孫瓚を従軍させた。このため張純はこれに不満を持ち、同郷の元泰山太守の張挙と烏桓の大人丘力居らと共に反乱を起こした(張純の乱)。 出立に先立って霊帝が閲兵したが、その際に張温は船橋軍礼に従って拝礼しなかった。古典的な軍礼では、一度将軍となったならば帝に対して拝命(という儀礼を)する必要はないとされていたが、漢代では実際に「不拝」という行為は稀だったという。このように張温には勇ましい一面があった。 一方で、部下である董卓の「直接反乱を鎮圧せずとも宦官を斬ってしまえば、反乱は治まるだろう」という凄まじい進言に対しては、慄き震えて返答できず婉曲に断ったという。また、実際に張温が反乱軍の鎮定に当たっている最中に、董卓が軍令を犯したため、義憤に燃えた孫堅から「朝廷に直訴して董卓を処刑すべきである」との進言を受けるも、実力者の董卓を恐れるがために拒否した。このように張温は極度に臆病な性格をも有していたと言い、この態度を陶謙にも追及されている。それ以来、董卓は張温と孫堅を憎み、いつか誅滅してやろうと誓ったという。 多くの功績を立てたが、勢力を持つ宦官と関係を持っていたため、誹謗されることになった。なお三公は本来、都にあって政務を執り行なったが、後漢末以降には都の外に直接太尉が出るようになった。その始まりが張温であったと言われ、後に衛尉へ転任した。 191年冬10月、涼州遠征以来の犬猿の仲だった董卓によって惨殺された。太史(太史令?)が「大臣のうち刑死する者がありましょう」と占い、さらに天変地異が起こった。そのため、董卓は元々仲が悪かった張温を、親交があった袁術と内通している人を使って誣告させ、笞で打ち殺させた。彼を憎悪していた董卓は、死んだ張温の首を刎ねて酒宴でその首級を披露したという。 三国志演義 小説『三国志演義』では、孫堅劉表との戦いで戦死した事を喜んだ董卓が酒宴を開いた時、董卓から斬殺を命じられた呂布に打ち首にされ、直後に皿に載せられ首級を船橋の場で披露されている。出席者は一様に恐怖の叫び声を挙げ、持っていた箸や杯を取り落とし、食べていたものを嘔吐したが、董卓だけが笑いながら酒を飲み、食事を続けたと描いており、董卓の残虐性を強調する印象的な場面としている。 また、王允とは古くからの友人同士という事になっており、張温の無残な最期を目の当たりにした王允は、「美女連環の計」を用いて董卓を暗殺する事を決意している。