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呂布は1年以上に亘り激戦

呂布はまず荊州に赴き、袁術に手厚くもてなされたが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹黒山賊張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越率いる数十騎が1日に3,4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した[12]。船橋この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという[13]。その後袁紹に兵力の補充を要求したが、呂布の将兵が略奪などを行なった。ついに袁紹の忌むところとなり、袁紹は刺客を送るが呂布の奇策により失敗した[14]。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたと言う[15]。尚、略奪事件については臧洪が「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけで有り、死刑に値する人物で有っただろうか」と、陳琳への返書で述べている[16]。 『後漢書』「呂布伝」では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとする。 冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内の張楊を頼る。張楊は、長安の意向を受け諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が察知し張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちを宥めるため、呂布を潁川太守に任命したという。 『後漢書』「呂布伝」では『三国志』と異なり、袁術張楊袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたとする[17]。 張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、船橋呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。 張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇を捕虜とするも、韓浩によって奪還された[18]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧・程昱等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。 曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略[19]を取り、曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破[20][21]した。しかし旱魃と蝗害によって兵糧が不足し、呂布曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。 その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に船橋太刀打ち出来ず[22]袁紹軍の協力を受けた[23][24]1千未満の曹操軍に、1万余りの兵を率い向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ

洛陽帰還行

董承は、元々董卓の娘婿牛輔の部曲であった[3]。董卓死後、長安における権力争いの中で、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。 興平2年(195年)7月、張済の仲介により、李傕・郭汜ら旧董卓軍の将軍たちの間で和解が成立し、献帝が洛陽へ帰還することになった時、董承は安集将軍に任命された。帰途の同年11月、郭汜が謀反して献帝を奪おうとしたため、楊定・楊奉がこれを撃ち破った。郭汜は、献帝を奪い返そうとする李傕と合流した。 その後、献帝一行が華陰に至ると、同地を統治していた船橋が一行を出迎え、献帝を自陣に迎え入れようとした。しかし、段煨と元々仲が悪かった楊定・种輯が反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。なお段煨には、献帝を独占しようという野心は無かった。この後、段煨と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李・郭にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃げている[4]。 その後、張済も董承・楊奉との対立の末に叛逆し、李・郭軍に加わった。董承・楊奉らは、李・郭・張連合軍と東澗で戦ったが敗北した。それでも曹陽澗まで至ったところで、董承は楊奉と共に、白波帥の胡才・李楽・韓暹、さらには南匈奴の左賢王去卑に呼びかけ、これらを援軍として得ることに成功し、李・郭・張軍を破っている。 しかしその翌月、執拗に追撃してきた李・郭・張軍に、董承・楊奉らはまたしても敗れてしまった。水路を使って逃げる途中、多くの官人たちが船に縋り付いてきたが、船橋は矛でこれを撃ち払ったため、官人たちの斬られた手指が船中に転がった。献帝一行は僅か数十人となってしまったが、先行していた李楽や張楊、河東太守王邑らの救援のおかげで、何とか安邑まで逃れた。 政争の果ての最期 建安元年(196年)正月、献帝を迎え入れようとした曹操が、曹洪に兵を与えて派遣してきた。董承は[5]、袁術軍の萇奴と共に要害を守備し、曹洪の進軍を阻んだ[6]。またその翌月、今度は献帝一行に付き従っていた将軍たちの間で争いが発生し、韓暹が董承を攻撃した。このため董承は張楊を頼って逃れ、張楊の指示により洛陽へ先行して向かい、宮殿を修繕した。 同年7月、献帝が洛陽へ到着すると、董承は韓暹と共に宿衛の任に就いた。しかし、韓暹の専横を恐れた董承は、密かに曹操を召し寄せ、その威を借りて韓暹・楊奉張楊らを追い落とすことに成功している。同年8月、董承は列侯に封じられた。建安4年(199年)3月、船橋は車騎将軍に任命され、車騎将軍府を開いた[7]。 董承は、次第に権力を強大化させる曹操を恐れ、同志(王子服・呉碩・呉子蘭[8]・种輯・劉備など)を集めてクーデターを起こそうとした。しかし建安5年(200年)正月、計画は事前に発覚し、董承一族やその一派は捕らえられ処刑された。彼の娘の董貴人も妊娠中だったが、それでも曹操は彼女をも殺した。

城内を分割して統治

興平元年(194年)、征西将軍の馬騰が李傕と関係を持とうとしたが、李傕がそれを拒否したために関係が悪化する。馬騰は双方の仲裁に入った韓遂と共謀し、長安に攻め上ったが、李傕はこれを撃退した。また、馬騰に連呼して益州から攻め上ってきた劉焉軍も撃退し、李傕の暗殺を目論んだ劉焉の長男劉範を逃亡中に船橋殺害、共謀した次男劉誕も処刑した(四男劉璋は前年に献帝の命で、父の劉焉を説得するために益州に向かい、そのまま抑留されたので無事だった)。 李傕は馬騰らと争っている間に、東方で勢力を拡大しつつあった曹操袁紹に危機感を抱き、彼らと対立関係にあった袁術公孫瓚陶謙等に献帝の名の元に爵位を与え、連携を図った上で包囲網を築こうとした。 李傕・郭汜は城内を分割して統治していたが、その統治能力は皆無といってよく、盗賊を取り締まるどころか、部下の好き勝手にさせて百姓に乱暴させた。そのため食糧の値段は高騰し、親が子を食い、子が親を食い、白骨や腐乱死体が街中に散乱して、道路に異臭が充満し、三輔の人口は激減した。また李傕は軍内でも同僚であった樊稠を、馬騰らとの戦闘中に捕らえた韓遂を見逃したとして殺害したため、西涼船橋に対抗出来る強力な人材を失い、弱体化した。 李郭交兵 民が苦しむ一方で、李傕と郭汜は互いに酒宴を開き、豪奢な生活を送っていた。 しかしある日、郭汜が頻繁に李傕の家に外泊していた事から、郭汜の妻が、夫が李傕に婢妾を与えられているのではないかとの猜疑心に駆られ、2人の仲を裂こうとした。郭汜は妻に謀られ疑心暗鬼に陥り、以後李傕と争うようになる。 李傕は献帝を奪取し、郭汜と一進一退の攻防を続けた。そのため、引き続き街には死体や飢民が溢れた。 凋落 その後、同僚の張済が2人を和解に導き、献帝を東方へ帰還させようとした。2人はこれに同意して楊定・楊奉・董承らに同行するが、郭汜が途中で変節し、献帝船橋長安に連れ戻そうとした。しかし董承らの抵抗でそれが不可能になると、軍を棄てて李傕の下へと走った。 李傕・郭汜は官軍を攻め、董承と不仲だった張済もそれに従った。 弘農において官軍を壊滅状態に追い込んだが、元配下であった楊奉と和睦を結び、追撃を中止した。このため献帝黄河を渡り、洛陽へ帰還する事ができた。 献帝と共に求心力をも失った李傕の軍勢は衰退していき、198年夏4月に裴茂・段煨に討伐され、三族皆殺しとなった。

董卓政権下

李傕の名が史書に出てくるのは初平2年(191年)で、孫堅に講和を求める使者となっている。この交渉は決裂し、講和は拒絶された。 後に孫堅が洛陽に入ると、董卓の娘婿である牛輔に従い陝県に残った。また先に董卓によって洛陽方面に派遣され、袁術に寝返っていた朱儁荊州から洛陽に進撃してきたため、郭汜と共に騎兵を率いて迎撃、朱儁軍を撃破した。李傕らはさらに進撃して、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県で男を殺し、女を誘拐したため、船橋彼らの通過するところでは命を永らえた者は居なかったという。 弘農王劉弁の后である唐姫は、劉弁李儒に殺害された後、郷里である潁川に帰っていた。彼女は潁川に攻めてきた李傕に拘束され、妻になる事を強要された。しかし唐姫は固く拒絶したため、李傕に惨殺された。 また、同郡の荀彧は李傕が襲撃してくる事を恐れ、速やかに避難するよう長老たちに促した。しかし長老たちが応じなかったため、荀彧は仕方無く自分の一族だけを連れて冀州に避難した。果たして潁川は李傕の襲撃に遭い、郷里に留まった者のほとんどが殺された。 王允の叛乱 初平3年(192年)4月、董卓呂布王允等に暗殺されると、王允董卓配下の軍の多くが涼州出身者であったため、軍の解散を計画し、まず陝県の牛輔を李粛に攻撃させた。当然、李傕もその例外では無かった。結果、牛輔の反撃により李粛を撃破するも、牛輔自身が部下の攴胡赤児の裏切りに遭い、船橋殺されてしまう。李傕は王允に赦免を請願したが拒否された上、長安では涼州人を皆殺しにするというデマが流れていたため、李傕らは身動きが取れずにいた。しかし賈詡の進言を受けて、郭汜らと共に10万人の兵をまとめ、長安への奇襲を決意した。同時に、指揮下の并州出身者を皆殺しにしている(叛乱の首謀者王允呂布并州出身であったため)。 李傕の襲来を察知した王允は、他の董卓の旧将胡軫徐栄・楊定らに李傕を迎撃するよう命じた。しかし結果は惨敗であった。徐栄は李傕に討たれ、胡軫・楊定は王允の傲慢な態度に加え、出陣前に嫌味を言われた事に怒り、新豊まで進軍したところで李傕に寝返った。 同6月、長安城は李傕に包囲されてから8日で陥落した。李傕は王允を八つ裂きにし、呂布一党を長安から叩き出した。 同9月、車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・船橋侯となる。

軍人として頭角を現す

幼い頃から好んで学問に励み[2]、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された[3]。以後は、廬県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。 中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため船橋張温の指揮下で涼州に派遣された[4]。 徐州で黄巾党の残党が蜂起したため、徐州刺史に任命され、その討伐にあたった[5]。 勢力の拡大 初平元年(190年)、董卓に反対する義兵が近隣の州郡で蜂起したが、陶謙は事態を徐州から静観した。 黄巾の残党が再び活発化すると、陶謙孫堅に援軍を依頼したため、孫堅軍の朱治が援軍を率いてやって来たこともあったという[6]。 董卓の死後、李傕・郭汜が長安の朝廷を牛耳るようになると、陶謙朱儁に太師となることを勧め、諸侯同盟の復活を目論んだが、孔融・鄭玄など一部の太守や学者の船橋賛同しか得られず、まもなく朱儁本人が長安の朝廷への帰順を決めたため、 陶謙の目論見は頓挫した[7]。陶謙は間道を使って長安に貢物を送ったため、安東将軍・徐州牧に任命され、溧陽侯の爵位を得た。 関東の諸侯が互いに争う中で、陶謙の推挙した王朗が会稽太守に任命されるなど、陶謙は揚州にもその勢力圏を伸ばすようになった。 この頃の徐州は豊かな土地であり、流民が戦乱を避けて身を寄せるほどだったといわれる。 しかし、その中にあって陶謙は次第に道義へ背くようになり、感情に任せて行動するようになっていった[8]。 曹操との敵対 袁紹曹操袁術公孫瓚が争うようになると、陶謙公孫瓚に呼応して発干に出陣し、袁紹を圧迫しようとしたが、曹操に打ち破られた(魏志武帝紀」)。 初平4年(193年)、下邳の闕宣[9]が勢力を振るうようになると、陶謙は闕宣と同盟して泰山郡の費県・華県において略奪を働いた。しかしやがて仲違いが起こったため、船橋闕宣を殺害しその軍勢を吸収した。また、同時期に曹操の父曹嵩が、陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。一説には陶謙が殺害したともいわれ、陶謙兗州を治めていた曹操の仇敵となった[10]。

儒学で名を成さしめた家系の出身

寛大で節義を弁え、智謀に秀でていたといわれている。代々儒学で名を成さしめた家系の出身で、常に質素な生活をしていたこともあったため、多くの人から慕われていた(『後漢書袁紹伝の引く『魏書』)。 霊帝の時代、何進の招聘を受け騎都尉となった。十常侍と対決することを決意した何進の命令で、同郷の王匡と共に故郷に戻り兵を募ったという(『後漢書』)。しかし成皋の地に辿り着いたところで、何進が暗殺されたことを知った(鮑勛伝の引く『魏書』)。 鮑信が兵を連れて戻ると、何進十常侍が共に滅んでおり、船橋董卓が軍勢を率いて都に入っていた。鮑信が董卓の専横を予見し、袁紹董卓を襲撃するよう進言したが、袁紹は実行しなかった。そこで鮑信は郷里に帰り、二万の歩兵・七百の騎兵・輜重五千余りを集めた(鮑勛伝の引く『魏書』董卓伝)。董卓討伐の同盟(反董卓連合軍)が結成された時、鮑信は済北国の相となっていたが(『後漢書』・武帝紀[1])、討伐軍に参加し、袁紹を盟主として関東の諸侯と盟約を結んだ(『後漢書』・武帝紀)。鮑信は袁紹曹操から行破虜将軍に推挙・上表された(鮑勛伝の引く『魏書』)。 鮑信は劉岱・張邈・張超・袁遺・橋瑁と共に酸棗に駐屯した。酒宴ばかりで戦をしようとしない諸侯に対し、曹操は戦をするよう訴えた(武帝紀)。鮑信は曹操の求めに応じ共に戦ったが、董卓の派遣した徐栄に大敗、弟が戦死し自身も重傷を負った(鮑勛伝の引く『魏書』)。まもなく兵糧が尽きて酸棗の軍勢が解散したため、鮑信も任地に帰還した(「後漢書』)。 袁紹冀州を取り強勢となると、船橋鮑信は袁紹が第二の董卓となりそうであるから警戒すべきとして、曹操に対し黄河の南を平定し、力を蓄え時を待つべきであると進言した(鮑勛伝の引く『魏書』)。曹操は東郡太守になると、再び鮑信を済北国の相に推挙した(鮑勛伝の引く『魏書』)。 青州黄巾賊が兗州に侵入すると、直ちに討伐しようとする劉岱に自重を勧めたが、劉岱はこれを聞かずに黄巾賊と戦い戦死した。陳宮曹操兗州牧に推戴するため、兗州の別駕従事や治中従事を説得した。鮑信らはその意見に賛同し、曹操兗州牧に迎えた。 初平3年(192年)、曹操と共に青州黄巾軍の船橋残党討伐に向かった。しかし作戦のため曹操と共に下見に出ていた最中、敵軍の不意打ちに遭ってしまった。軍勢が到着していなかったため白兵戦となったが、鮑信は必死に戦い曹操を救出した。このため曹操が敵の包囲を破って脱出できたが、鮑信は戦死してしまった、享年41。曹操は鮑信の死を悲しみ、遺体を捜させたが見つけられなかった。 将兵に施しを良くしたため、死後に財産も残らなかった。

若い頃から男伊達

董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の八俊(八厨)の一人であったとある。若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった。曹操袁紹と親友のように仲が良く[1]、 頭脳の明晰さと徳行で官界において知られるようになった。また三公の府から招聘を受け、成績優秀という評価を受けた。騎都尉を務めた後は、董卓の名士優遇策の一環として、陳留太守に任命された(「董卓伝」)。 袁紹を盟主として反董卓連合が結成された時、張邈は曹操らと共に参戦した[2]。 張邈は弟や曹操、それに劉岱・袁遺・橋瑁・鮑信と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯が酒宴ばかりで戦をしようとしなかった[3]。 曹操が戦をするよう呼び掛けると(武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の衛茲を曹操に同行させた。しかし、曹操達は董卓軍の徐栄に大敗し、衛茲を戦死させてしまった。また、酸棗の軍勢も兵糧が尽きたため解散となった(「後漢書』)。 これ以前、袁紹董卓を討つべく集まった諸侯に対し、奢った振舞いを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時は、曹操袁紹に取り成したため、危うく難を逃れている。張邈はこの事を知ると、曹操に対し恩義を感じるようになったという。 長安で勃発した政変の結果、呂布董卓の部下である李傕達に敗れて落ち延び、袁紹の下に身を寄せた。しかしそこで諍いを起こしたため、呂布袁紹の下からも立ち去ることになった。その後、張邈は呂布と親交を結ぶようになったため、それが原因で袁紹から不興を買うことにつながってしまう。張邈は「いつか、曹操袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか」と、曹操に疑念を抱くようになったという。一方の呂布張楊の下に身を寄せた。